ローマの13本のオベリスク(ローマ市内) |
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エジプトにはたった6本のオベリスク(大型で今もまだ立っているもの)しかないのに、
なんとローマには本家エジプトを上回る13本のオベリスクがあります。
中には本当に古代に作られたものもありますし、ローマ皇帝が古代エジプトのオベリスクの
模造品をわざわざアスワンの石切り場で作らせローマまで運んだものもあります。
全13本見て回っても、所要時間は2日~2.5日です。あなたも13本のオベリスクにチャレンジしてみませんか? |
1.ラテラノ・オベリスク
地下鉄A線サン・ジョバンニ駅より徒歩3分ほど、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の正面玄関から右手裏のサン・ジョバンニ広場に建っています。
トトメス3世が建築を命じ、トトメス4世時にカルナック神殿に建立されたオベリスクで、高さ32.18m、重さ455トン、現存するオベリスクの中で最大のものです。
ローマに来たなれそめは、クレオパトラを倒してエジプトを征服した皇帝アウグストゥスがこのオベリスクに惚れ込み、ローマにお土産として持ち帰ろうとしたのですが、その困難さに断念。
実際に運び出しを命じたのは、3世紀後のコンスタンティヌス帝でした。彼は自分の名を付けた新都コンスタンチノープル(現イスタンブール)にオベリスクを運ぼうとしたのですが、途中で亡くなり、後を継いだ息子のコンスタンティウス帝によりローマに運ばれました。
ローマでは当初マッシモ円形劇場(現チルコマッシモ遺跡)に運ばれ、アウグストゥス帝が3世紀前に運ばせたオベリスク(フラミニオ・オベリスク)と並んで立っていましたが、のちに倒壊し地中に埋まってしまいました。
再度掘り出しを命じたのは16世紀の法王シクストゥス5世。ローマの都市計画・都市整備に熱心だったこの法王の命により掘り出され(1年以上かかったそうです)1588年8月3日にラテラノのサン・ジョバンニ広場に移築されました。
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂は、教皇座がヴァチカンに移るまで1600年の間、世界のカトリック教会の中心だった格式ある教会です。 |
ラテラノ・オベリスク |
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂 |
2.フラミニオ・オベリスク
地下鉄A線フラミニオ駅下車すぐ。ポポロ広場中心。
セティ1世が柱身の3面まで装飾を施しましたが、最後の面は息子のラムセス2世により完成され、ヘリオポリスの太陽神殿に建立されました。高さ32.77m、重さ235トン
このオベリスクはローマに建てられた最初のオベリスクで、カルナック神殿のオベリスク運び出しを断念したアウグストゥス帝が代わりにヘリオポリスにあった2本のオベリスクをローマへ運び出しました。(もう1本はモンチトーリオ・オベリスク)
紀元前1世紀にローマのマッシモ円形劇場の中心に建立されました。これにはローマ帝国がエジプトを征服した記念のモニュメントという意味もあったようです。
4世紀ごろまでは立っていたようですが、その後倒壊。1000年以上行方不明になっていましたが、16世紀偶然にその破片が発見され、法王シクストゥス5世により発掘・再建を命じられました。再建立されたのは1589年のことです。
ポポロ広場からは主要な道路が3本枝分かれしており、ローマ市内への主要な入り口のひとつでした。17世紀に「双子の教会」と呼ばれるサンタマリアインモンサント教会とサンタマリアディミラーコリ教会ができる前、ここに小さなピラミッド型のモニュメントが2つあったといわれています。
19世紀の都市整備の際、ポポロ広場も回収され、オベリスクは階段のついた高台の上に移され、周囲にはエジプト風に作られた4頭のライオン像が設置されました。 |
フラミニオオベリスクと
双子の教会 |
ラムセス2世の碑文 |
3.モンチトーリオ・オベリスク
モンチトーリオ宮(イタリア下院)前。パンテオンの北約300m
第26王朝3代目の王プサメティコス2世がヘリオポリスの太陽神殿に建立したもので、高さ21.79m、重さ230トン。保存状態が良くないので碑文はよく読めないが、かろうじて王名が読み取れます。
アウグストゥス帝の命により、フラミニオ・オベリスクと共にローマに運ばれた最初のオベリスク。西暦10年にローマに到着した後、軍事訓練やスポーツのために建てられたカンポ・マルツィオ(現在のモンチトーリオ広場のやや北にあった)の日時計の針として使われました。
10世紀または11世紀ごろ倒れて地中に埋まり、行方不明になってしまいました。16世紀に再発見され、法王シスクトゥス5世により再建を命じられましたが保存状態が悪くて断念。結局その2世紀後、法王ベネディクト14世の命により再発掘され、1751年、現在の場所に建てられました。
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モンチトーリオ・オベリスク |
4.ロトンダ・オベリスク(パンテオン)と
5.チェリモンターナ・オベリスク
この2本のオベリスクは、ラムセス2世がヘリオポリスの太陽神殿に建てた1対のオベリスクでした。イシス女神を奉ったイセウム神殿に建てられるためにローマに運ばれてきましたが、それを命じた王や、運び出しの年代は不明。またいつ頃再発見されたのかも不明です。
現在では2本のオベリスクの高さは異なってしまっていますが、寸法や表面の装飾は良く似ていて、1対のオベリスクであったことが推察されます。
ロトンダ・オベリスク(高さ6.34m) パンテオン前
ローマに運ばれイセウム神殿に奉納された後、倒壊し、その後イセウム遺跡の上に建てられたサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会近くに横たわっていたという記録と、セミナリオ通りのサン・マウント教会という小さな教会の近くに建っていたという記録があり定かではない。
法王クレメント11世の時代に移転の話が持ち上がり、パンテオン前のロトンダ広場に建てられることが決まり、台座にはいるかの噴水、頂上には星の上に乗った十字架が取り付けられました。
チェリモンターナのオベリスク(高さ2.68m程度)
チェリモンターナ公園(地下鉄A線サン・ジョバンニ、B線コロッセオ、チルコ・マッシモ駅から徒歩10分?)
ロトンダのオベリスクと対になるオベリスクですが、現存しているのは上部だけで、下部の破片は現在では失われてしまいました。過去の碑文研究家が取った碑文の写しが現在まで伝えられていて、それによりロトンダ・オベリスクと内容が呼応していることがわかります。
イセウム遺跡にあったという記録の後、数箇所を点々とし、記録では16世紀にローマ市がある貴族にこのオベリスクを寄贈したとあります。その貴族はチェリモンターナにある自分の別荘にオベリスクを移築しましたが、彼の死後、別荘は荒廃しオベリスクも倒壊。
18世紀にスペインの元首相、マニュエル・ドゥ・ゴドイ王子がこの別荘を修復し、倒壊したオベリスクも修復、庭に再建させ、現在に至ります。
ロトンダ広場のオベリスクと1対のものでしたが、波乱の歴史を経て、こちらのオベリスクはずいぶん短くなってしまいました。ロトンダ広場のオベリスクが観光客の大勢訪れるパンテオン前にあるのに比べ、こちらは地元の老人や、ホームレス(!)のいる公園の片隅の、しかも草ぼうぼうの荒地に放っておかれているのをみると、なんだか悲しくなりますね。 |
ロトンダ・オベリスク
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チェリモンターナ・オベリスク |
<チェリモンターナオベリスク の場所>
事前の調査で唯一はっきりした 場所がわからなかったオベリスクで、 探し出すのに一番苦労しました。 それだけに思い入れの深い オベリスクです。
ラテラノのオベリスクを見て、 その足で向かうのが一番 わかりやすいです。
公園入口はラテラノ広場から 伸びるサン・ステファノ・ロトンド通り とアンバ・アラダム通りの 突き当たるナヴィセラ通り沿い。
サン・ステファノ・ロトンドの 正面あたりに大きな入口の 門があります。
門を入ってまっすぐ進むと ローマ風の柱のある広場に出ます。 そこを左折した並木道の 突き当たり、藪のような 荒れた草むらの中、金網のむこうに オベリスクを支える足場が ちらりと見えます。 |
6.テルメ・オベリスク
地下鉄A線 レプブリカ下車 すぐ
ラムセス2世がヘリオポリスの太陽神殿に建てさせた1対のオベリスクのうちの1本。もう片方は現在フィレンツェのボボリ公園にあります。高さ9.25m
イセウム神殿を装飾するためにローマに運ばれたものですが時期やそれを命じた王の名は不明。
1870年イタリアが統一され、組織的な考古学調査がはじまり、1883年6月にイセウム遺跡より発見されました。碑文解読によりラムセス2世がヘリオポリスに建てさせたオベリスクだということが判明し、また対の片方が少し前にその付近から発見され、フィレンツェに運ばれていることもわかりました。
テルメ・オベリスクが発見されてから2年後、イタリアとエチオピアの間に戦争がおこり、548人のイタリア人兵士が敵の攻撃により全滅しました。このオベリスクは死んだ兵士の慰霊碑としてローマ・テルミニ中央駅前に1887年再建されました。
1924年駅前広場の改修工事が行われ、現在の場所に移されました。 |
テルメ・オベリスク
ちょっと雰囲気の悪い 緑地の中にあります。 周囲にはスリの子供がいます。 オベリスクに見とれて 貴重品をすられないように 気をつけてください。 |
7.ミネルヴァ・オベリスク
パンテオンのすぐ南。サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会前
第26王朝の王、アプリエスによりサイスに建造された1対のオベリスクのうちの1本。対の片割れはイタリア中部の小都市ウルビーノにあります。高さ5.47m(象の彫刻を入れると12.69m)
このオベリスクがローマに運ばれた経緯は不明ですが、イシス女神を奉ったイセウム神殿に建てられていたようです。その後、オベリスクは倒れ、地中に埋まってしまいました。
1665年、ドミニコ派の修道士が教会の周囲に新しく塀を作るため地面を掘っていたときに偶然発見され、当時の法王アレッサンドロ7世がこれを発掘、修復し、ミネルヴァ教会前に建てることを決定しました。
オベリスクの台座のデザインは、多くの案が出されましたが象の彫刻の上に載せるデザインに決定しました。1667年7月、オベリスクの奉献式が執り行われました。
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会は地動説を唱えたガリレオが裁判にかけられた教会です。「それでも地球は回っている」といったのは、このオベリスクの前だったのでしょうか。 |
ミネルヴァ・オベリスク |
迫力のある象 |
8.ナヴォーナ・オベリスク
パンテオンから徒歩5分。ナヴォーナ広場。
1世紀のローマ皇帝ドミティアヌスがエジプトの上流、アスワンの石切り場から切り出させ、ローマに運んだもので、碑文にはドミティアヌスの名がヒエログリフ(象形文字)で掘り込まれています。(高さ16.54m)
ローマに運ばれたオベリスクは、現在のパンテオンの200~300m南にあったセラペウム神殿とイセウム神殿の間に建てられました。
その後、マクセンティウス帝が亡くなった息子をしのんで建設させたチルコ・ディ・マセンチオに移築されましたが、後に倒壊して数個に割れてしまいました。
オベリスクが再建されたのは法王イノセント10世の時代になってからで、自分の法王就任を記念してナヴォーナ広場に噴水を作り、そこにこのオベリスクを建てることを思いつきました。
オベリスクの台座となる噴水のデザインは当時の高名な建築家ベルニーニが計画し、4つの大陸(アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ)と4大河(インダス、ナイル、ドナウ、ラプラタ)を象徴する像を配置しました。
ベルニーニが作成した建築物や噴水はローマにたくさん残っていますが、中でもこの「4大河の噴水」は彼の代表作として高く評価されています。
噴水とオベリスクが完成したのは1651年春です。
ローマ風アヌビス像
これがハトホル像と言われても・・・ |
ナヴォーナ・オベリスク |
布をかぶったナイル
(顔が見たかったのに・・・) |
9.ヴァチカン・オベリスク
10.エスクイリーノ・オベリスク
11.クィリナーレ・オベリスク
これら3つのオベリスクには碑文が彫られていません。製作された時代、初めに建てられた場所、またなぜ碑文が彫られなかったかの理由はまったく不明。ローマ皇帝の命により、エジプトで切り出されたレプリカ(模造)との説もあります。
ヴァチカン・オベリスク
地下鉄A線 オッタビアーノ下車徒歩5~6分
ヴァチカン市国内のサンピエトロ広場中心にあります。
高さ25.37m 赤色花崗岩製
アウグストゥス帝の命により、アレキサンドリアのジュリアン広場に建てられていたという説もあります。西暦37年、ローマ皇帝カリギュラによりエジプトからローマに運ばれ、カリギュラ広場(現サンピエトロ寺院のある場所)に建てられました。ここは聖ペテロなど初期キリスト教徒たちが処刑された場所です。
16世紀半ば、ローマ法王シクストゥス5世がサンピエトロ寺院を建築する際、現在の場所(サンピエトロ広場)に移築され、現在に至っています。古代に建てられてから1度も倒壊していないオベリスクです。
エスクイリーノ & クィリナーレのオベリスク
エスクイリーノ : テルミニ駅から徒歩
サンタ・マリア・マッジョーレ教会前
高さ:14.75m 赤色花崗岩製 クィリナーレ : 地下鉄A線 バルベリーニ または
レプブリカから徒歩
クィリナーレ宮(大統領官邸)前
クィリナーレの丘
高さ:14.65m 赤色花崗岩製
この2本のオベリスクは大きさがほとんど同じで、2本とも装飾が無く、もともと1対のものだったと思われます。ローマを装飾する目的でエジプトで切り出され、ローマに運ばれてきたようですが、来歴は不明です。
ローマで最初に立てられた場所は不明ですが、16世紀に発見されたときには、アウグストゥス帝の墓所の入口近くに横たわっていました。
現在の場所に移転を命じたのは法王シクストゥス5世で1587年に、サンタ・マリア・マッジョーレ教会の後ろにある広場(エスクイリーノ広場)に再建されました。(エスクイリーノのオベリスク)
その2年後、1781年にもう片方のオベリスクが発見され、時の法王ピウス6世により再建が命じられ、クィリナーレの丘に再建立されたのは1786年の事でした。 |
ヴァチカン・オベリスク |
エスクイリーノ・オベリスク |
クィリナーレ・オベリスク |
ヴァチカン サン・ピエトロ広場 |
12.トリニタ・デ・モンティ・オベリスク
地下鉄A線 スパーニャ下車。スペイン広場階段の上
高さ:13.92m 赤色花崗岩製
オベリスクが建てられた時期やローマに運ばれた時期はわかっていません。柱身には碑文が彫られていますが、その内容はポポロ広場にあるフラミニオ・オベリスクと同じため、それをまねして後にローマで象形文字が刻まれたのではないかと言われています。
サルスト庭園の地中から発見されたので、最終的にはそこに建っていたと考えられますが、それまでの経緯は不明です。
法王シクストゥス5世がこのオベリスクを再建しようとしましたが断念。1789年になって法王ピウス6世がこのオベリスクを現在の場所であるスペイン階段の最上段、トリニタ・ディ・モンティ教会の前に建てました。 |
トリニタ・デ・モンティ
(スペイン広場) |
13.ピンチョの丘のオベリスク
地下鉄A線 フラミニオ駅下車 ピンチョの丘内
高さ9.25m 赤色花崗岩製
オベリスクが切り出された時期、ローマに運ばれた時期は共に不明です。
一説では、ハドリアヌス帝が亡くなった友人のために彫らせたとも言われています。3世紀にはヴァリアヌス円形劇場に移築され、その後倒壊してしまいました。
のちには個人の所有物となり様々な場所を点々と移動し、1822年9月、法王ピウス7世により現在の場所(ピンチョの丘公園内オベリスク通り)に移築されました。 |
ピンチョの丘のオベリスク |