巡礼の歴史

伝説によると、キリスト12使徒の1人、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)はキリストの死後スペイン北部に渡り伝道活動を行いました。

しかし伝道活動は不振に終わり、紀元44年に再びエルサレムに戻った聖ヤコブはユダヤ王アグリッパにより斬首され、キリスト12使徒初の殉教者となりました。

 jacobo
サンティアゴ・マタモロス像
(イスラム殺しのサンティアゴ)
ヤコブがキリストのように死後復活するのではないかと恐れたユダヤ王は、エルサレムでのヤコブの埋葬を許可しませんでした。石の船に安置された彼の亡骸はアタナシオとテオドシオという2人の弟子とともにガリシアの海岸に流れ着き、ウヤ川を遡りパドロンという町に到着しました。のち様々な変遷を経てリブレドン山に埋葬されましたが、時代の流れとともに墓の存在は忘れられていきました。

813年隠者パイオが星の導きによりその所在を突き止めました。その場所に聖堂(現在のサンティアゴ・デ・コンポステラの大聖堂)が建てられました。聖ヤコブの墓の発見はヨーロッパ中に伝わり、次々に巡礼者が訪れ始めました。

当時イベリア半島はイスラム教徒の支配下にあり、聖ヤコブ伝説と聖地サンティアゴ巡礼はレコンキスタ(国土回復運動)の核となり巡礼者は増えていきました。聖ヤコブは様々な奇跡を起こしたとされています。

最盛期の11世紀には、王族、貴族から平民まで年間50万人を超える人々が聖地を目指しました。彼らを守るためサンティアゴ騎士団が結成され、救護院や宿場も整備されました。

巡礼ブームは、社会的不安定さや経済力の低下、レコンキスタの終了、プロテスタント諸国による聖人崇拝の禁止など様々の要因から14世紀ごろから衰退し始めました。さらに16世紀後半、スペインがイギリス海軍との戦いに敗れたため、イギリス軍による略奪を恐れた教会が、聖ヤコブの遺骸を隠した際に、どこに隠したかを忘れてしまい、巡礼人気は滑落しました。

しかし19世紀後半に、サンティアゴ教会の祭壇下より発掘された遺骸が聖ヤコブのものであると、当時の法王レオ13世により認定され、翌年には祭壇が設置され人々が聖ヤコブの墓を詣でることが再び可能になりました。

20世紀に入り、交通手段の発達や、観光旅行ブームにより復活し、サンティアゴ・デ・コンポステラの旧市街は1985年に、巡礼路は1993年と98年にユネスコにより世界遺産と認定されました。